2018年、国内22件目となる世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。 異国情緒たっぷりの教会群を巡りながら少しだけ、歴史を紐解いてみましょう。

 

先日長崎を訪れ、いくつかのブログ記事を書きましたが一番の目的は2018年に登録された世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に触れること。長崎におけるキリスト教の歴史はみなさんも何となく頭の片隅にはあるかもしれませんね。250年の禁教時代とその後をすべて書くには膨大なお話となりますので、ここでは撮ってきたお写真とともにかい撮んだお話を書かせていただきます。それでも長文記事となります。ご興味のない方はすっ飛ばしながら読んでみてください。

 

これまでのブログ記事

  • 海底炭鉱によって栄えた世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」を構成する端島炭坑、軍艦島に行ってきた
  • まるで迷宮のような長崎歓楽街、銅座で撮るスナップ「銅座らびりんす」
  • 祈りの島、長崎県五島市福江島にあるロザリオ工房「ロザリーマリア」さんを訪ねてみた
  •  

     

    1549年、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは翌年の1550年長崎県平戸に赴き、ここでの布教を領主から許されます。もともと中国などとの貿易に力を入れていた平戸。ここからキリスト教の布教が始まりました。

    ザビエルに続き大勢の宣教師たちによって布教活動が続けられ、やがて長崎港が開港。南蛮船が出入りし、教会が建てられ、華やかなキリスト教文化となっていきます。

    しかし、キリスト教人気が爆発的に広がってゆくとともに、権力者側からはやがて脅威と見なされてきます。キリスト教の布教を基盤としてヨーロッパの国々が支配を目論んでいるのではないか、キリストの教えが豊臣秀吉が目指す天下統一の妨げとなるのではないか。そしてついに1587年に伴天連追放令を発令しました。(バテレン=神父の意.ポルトガル語)

    ここから長い弾圧の歴史が始まります。

    発令後も宣教師の布教、信者たちの信仰は続きます。これに対し秀吉は宣教師や修道士を処刑します。なかでも見せしめ的に行われたのが京都や大阪で捕えられた26人の信者たちの処刑。彼らは長崎まで歩いて連れてこられ十字架に架けられ処刑されました。この中には12歳の子供もいました。

     

    時代は徳川に移り一旦は貿易は広がり、それとともに弾圧の手も緩みます。しかし再び宣教師やキリシタンへの不信感がつのり、1612年徳川幕府は禁教令を発布。1614年には全国でのキリシタン摘発が始まりました。宣教師の潜入阻止、摘発と処刑、信徒には改宗をせまり従わないものは処刑。平戸、外海、五島、黒島など長崎、そして島原などでは数多くのキリシタンが命を落とします。

     

     

    この頃の話を描いた遠藤周作の「沈黙」。想像を絶する当時の描写などが描かれており、長崎へと立つ前に読んでみましたが言い表せないほどの衝撃を得ました。字は小さいですが実に読みやすい本となっていますので、よろしければ読んでみてください。



     

    また、今回訪れたのは長崎ですが登録名にある天草は以前に訪れています。その時の記事は以前運営していたブログで執筆しています。

    < アマクサ・サマー♪ >その2https://revoir.exblog.jp/16771024/

     

    続けます。

    1639年、ついにポルトガルとの交易を断絶して鎖国。ここから幕末までの約250年間キリスト教は消え去り、いつしか表面的には昔、そういう宗教があったという昔話になっていきました。そう、「表面的」には。信者たちは社会との関わりを保ち、厳しい弾圧の中、しかも宣教師不在でありながらも潜伏キリシタンとして250年もの間信仰を守り通して来ました。

    そして奇跡の日がやってきます。

    幕末になり黒船の訪れや諸外国からの開国要請、日仏修好条約が結ばれると長崎にはフランス人が居住するようになります。そして1864年、立派な大浦天主堂が建てられました。その献堂式の1カ月後、この大浦天主堂に十数人の日本人が訪れます。その中の1人の女性が神父に「マリアの像はどこですか?」と訊ねました。禁教から250年、潜伏キリシタンと神父との再会の瞬間でした。このことは宗教史上の奇跡と言われています。しかし禁教令はそのまま明治政府に引き継がれ、廃止されたのは1873年でした。

     
     

    さて、今回登録された「潜伏キリシタン関連遺産」は12の構成施設から成ります。キリスト教弾圧の時代を過ごした施設であったり集落であったり、解禁後に建てられたものであったり。先の大浦天主堂もその一つです。その中で今回私が廻った外海地区、そして構成遺産ではありませんが重要な島である福江島のお写真をお見せします。教会はいずれも内部の写真撮影は不可。外観のみとなります。

     

     

    外海地区

    長崎市街から車で1時間ほどにある外海(そとめ)地区。ここには「外海の出津集落」と「外海の大野集落」があります。この外海一帯には5,000人近い潜伏キリシタンがいたらしく、飛び地であった佐賀藩が比較的寛容であったことから多くの潜伏キリシタンがいました。また、この地域から多くの潜伏キリシタンが五島列島などの離島へと移住、広がっていきました。

     

    出津教会

     

    外海の石を積み重ねて作った独特な外壁の出津集落

     

    大野教会。まるで民家のような素朴な教会。

     

    外海から望む五島方面。多くのキリシタンがこの海を渡っていきました。

     
     

    五島列島福江島

    長崎港からジェットフォイルで1時間25分、フェリーで3時間10分。外海のキリシタンが移住し最初に住み着いたとされる島で、五島宣教の拠点だった「堂崎教会」をはじめ、今でも数多くの教会が残っています。

     

    堂崎教会堂。島の入り江にたたずむ五島最古の洋風建造物。現在は1908年に建て替えられたもの

     

    井持浦教会。日本で最初のルルドの泉があり全国から巡礼者が訪れます。※ルルドの泉=万病を治す奇跡の泉

     

    楠原教会。近くに弾圧で投獄された楠原牢屋敷跡がある。

     
     

    以上が今回私が訪れた教会、集落です。残念ながら内部の写真は撮ることは出来ませんでしたが、すべての教会が目を見張るデザインや装飾となっていて、思わず長居してしまいそうでした。

     

    最後に「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」という言葉について少しだけ。みなさんこの違いについてご存知でしょうか。
    禁教時代、やむをえず信者は仏教を信仰していると見せかけキリスト教を偽装棄教することになります。集落ごとに信仰を続けられるように仕組みを変え、宣教師に当たる役どころが出来、洗礼に代わる儀式が出来るなど独自の信仰文化が形成されていきました。こうした事例は世界的にも珍しいものだそうです。そしてこの時代のキリスト信仰者を「潜伏キリシタン」と呼びます。そして禁教が解かれたあとも本来のカトリックに戻らず、この独自の信仰を続けている人々を「隠れキリシタン」と呼びます。つまり、隠れキリシタンは現代でも存在するのです。

     

    渕ノ元カトリック墓碑群

     
     

    いかがでしたでしょうか。長くなりましたがもちろん大雑把にまとめているに過ぎません。250年の歴史は本当に広く深く、興味深いものでした。そして、長崎には他にも訪れるべき構成遺産がいくつもあります。いつかまた、そんな歴史に触れる旅に出たいと思います。

     

    風化の一途をたどり年々姿を変え行く「明治日本の産業革命遺産」の軍艦島。今なお数多くのキリスト教信者がおられる五島の島々とロザリオ。そしてこの「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。そのすべてを一度に見て回ることはなかなか難しいかもしれませんが、この記事を読まれて少しでも興味を持たれたら是非、機会を作って訪れてみてください。また「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を巡るツアーもあるようです。せひご自身の目で見て、空気を感じ、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

     
     
     

    ※撮影機材
    カメラ;SONY α6400
    レンズ;SONY Vario-Tessar T*E16-70mm F4 ZA OSS

     
     
     

    写真素材のピクスタ

     

     

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。

    このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください